モントリオールから帰国した5歳の時、日常の雰囲気ががらりと変わったのを覚えている。
5歳という年齢ゆえ言葉がままならず(日本語と英語が混じっていたらしい)、毎日の空気にふわふわとした何かが溶け込んで浮いている光のようなものを感じた。音楽に興味をもった瞬間だ。
幼児向け学習雑誌に掲載されていた童謡の譜面を見て、それが光の正体であると察知した。音楽は音符で言語化されている。アメリカ・カナダ暮らしのため家にはアメリカンポップスや映画のレコードはあるものの、家族に楽器を演奏する者はおらず、ソシアルダンスをたしなむ叔母から楽譜の読み方を習った。かろうじて家にあった楽器:ハーモニカで母が買ってきた子供のための童謡集楽譜の数十曲を1週間で一気に制覇した。
同時に作曲をし(happyの歌)、その後昭和の有名歌手(山口百恵さん)が遠縁にあたることを知り、自分も広く親しまれるような音楽を作る人になることを夢見た。
光の正体、楽聖もそれをみたのだと思う。豊かさは常に存在し、たとえ無音でも音楽は奏でられている。作曲家である自分は無音の中に流れている音楽を、ラジオのチューニングを合わせるように聴き取りに行く。
もちろん研究されている楽理は音楽的にも物理的にも学んでおり知っており活用できる。特に、Diatonic上の4和音を基本とし、代理和音や別調の和音を借用し、調性の中で使えない和音が無いほどの多彩さを可能とするバークリー式理論は大好きだ。対位法だけでよいとするマーラーの言葉にもうなづける。だからと言って、心からではなくスキルからひねり出された音は人が時間をかけて味わう価値があるのだろうか。自分が聴き取った音符が人の心を動かすものになっているか、自分は何度も無音の中に答えを見出しに行く。
他人に見えないものが見える、聴こえないものが聴こえると主張するのはオカルトだ。真理がないものを探求するのは哲学や宗教かもしれない。他人に見えないものを見えるように、聴こえないものを聴こえるようにするのが芸術であり、真理を積み重ねていくのが科学である。どちらも探求の立場に立ちながら、科学的に検証するfactを足掛かりにする。私は芸術や科学の方に立ちたいと思う 。
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